Huracán

ただのFEのこと適当に話すブログになってしまった

FEHの覇骸について

こんばんは。今回は、FEHの次の新英雄召喚イベントの件で芽生えたどうしようもない気持ちを、このブログに吐き出すだけ吐き出そうと思い、久しぶりにPCで文章を書いてます。

当たり前のように「ファイアーエムブレム風花雪月」の蒼月の章のネタバレが含まれていますので、未プレイの方はお読みにならず、動画勢やエアプは早急に買ってプレイしてください。ニンテンドーカタログチケットを使えばお得です。

動画で見ただけで理解しようとしないでほしい。なんのためにカジュアルモードがあると思っているのだろうか。10年前のISの苦渋の決断を動画で済ませないでほしい。あれ、ちょっとまて新紋章ってもう10年以上前…(それ以上いけない)

 

 

では、本題にうつります。

FEHではもはや恒例となった5月の闇落ち新英雄召喚イベントで、蒼月の章のラスボスとして君臨なさるエーデルガルト様が実装されると、本日正午に発表されました。

私はと言うと、ずっとFF14をやっていて、Twitterも自分のアカウントの通知欄しか見ていなかったので、夜8時頃に気づきました。

4月に公開したFEHのスケジュールも全く頭に叩き込んでいなかったので、完全に忘れていました。

 

率直に言うと、めちゃくちゃつらいです。他の何かに例えようがなく。

 

幼少エフラムの声優がエーデルガルト様と同じく加隈亜衣さんであり、かつ時期が時期なだけに覇骸エーデルガルトが実装される気はしていましたので、多少ショックは和らいだものの、いざ現実のものになると、つらい。

つらい感情は勿論のこと、これまでFEHで度々起きた解釈違いなどは自分の中で整理してなんとかやり過ごせてはきましたが、今回ばかりはこの大きな解釈違いをどうやって受け止めればいいのか、わかりません。わからないので、こうしてブログでお気持ちしたためているのです。

 

そもそも、実装されただけで解釈違いとはどういうことか?ということを説明しなくてはいけないので、私なりの覇骸エーデルガルト像について書き記したいと思います。

なお、下記の解釈について、私はエーデルガルト様とヒューベルトのカップリングが他の何にも変えようがないくらい大好きなので、変なフィルターがかかっている可能性がありますので、悪しからず。

 

 

蒼月の章でエーデルガルト様が異形の姿となる決意をした時、まだ孤独な存在ではなかったと言えます。

理由は、蒼月の章ではなく、白雲の章の黒鷲の学級で"エーデルガルトを守る"の選択肢を選んだ後に見れるイベントにて、ヒューベルトがエーデルガルト様に向かって私がいる限り貴方様は決して独りにはならないといった内容を発していることから、エーデルガルト様がどう思おうが関係なく、ヒューベルトが生きているうちは独りではない、よって伯父であるアランデル公が討たれた時には、まだ孤独ではないと判定をしました。

しかし、孤独にさせないといった人間の言葉(ヒューベルトが反対意見を申し入れたこと)を受け入れず、エーデルガルト様はヒューベルト亡き後に異形の姿となりました。

これは、孤独になろうとも己の道を進み続けるという決意でもあったのだと、私は思います。

(だからといって、人のために異形が作り支配する世界を変えるために、自らが人であることを捨て去り、異形となるなんて本末転倒であることは間違いなく…。)

 

エーデルガルト様は独りでも自分の選んだ道を歩み続ける決意をしたものの、ディミトリは言葉では戦うことしかできないと発してもなお、最後の最後まで、エーデルガルトを手を取り合う未来を考えていたからこそ、ラストマップクリア後のムービーでエーデルガルト様へ手を差し伸べたのだと思います。そういう意味では、最後までエーデルガルトを独りにしないように行動していたのはディミトリなのだなと。

そのディミトリの差し伸べた手を、エーデルガルト様はというとディミトリから二度手渡された短剣をディミトリの胸に返す形で拒否をしたわけです。最後の最後まで、エーデルガルト様は孤独を貫き通したことになります。

 

だらだらと書きましたが、覇骸エーデルガルトは自分の中で「自ら孤独を選び続けた者の成れの果て」と解釈しています。

そして、そんな悲しい決意をさせてしまうエーデルガルト様を取り巻く時代と環境、更にゲームだからと全てのルートを遊ぶぞと意気込んだ自分自身を呪いたくなるくらいには、覇骸エーデルガルトを2019年8月に初めて目にした時よりずっと受け止められていません。正確にはゲーム上存在もしているから受け止めてはいるものの、受け止めている自分が憎い、といった表現が正しいですね。二次創作はおろか、覇骸に関する話題すべてを目に入れたくないほどに。

たらればの話ですが、おそらく紅花の章がなかったら、きっと自分の中で覇骸を真正面から受け止めることができ、エーデルガルト様は歴代FEの敵キャラクターと同じような愛し方をしていたと思います。

でも、紅花の章という、そんなエーデルガルト様と共に覇道を征く道が原作にご用意されている以上、敵キャラクターとしての愛し方は不可能なのです。紅花の章も、蒼月の章も、ないものにはできません。

 

 

上記の解釈、それに対する他人からすればアホじゃねーの?って思える私の感情はここまでにして、次にFEHの召喚システムについて振り返ってみます。

FEHのイベント想いを集めてのスーのB会話で、召喚する英雄は召喚師自身は決められず(この仕様のせいでいくら金が溶けたか…)、英雄と召喚師の縁が繋がった時に至天の世界に喚ばれる、とのこと。

でもUNEIはそんなことは特に考えて実装する英雄なぞ決めてはいないと思います。カネがすべて、はっきりわかんだね。

 

つまり何が言いたいかといいますと、幼い頃より付き従って独りにさせないと決意した者の静止の声を聞き入れず、差し伸べられた手に短剣を返すなどといった、自ら孤独を選んだ者の成れの果てが召喚師と縁がつながること自体がばかでかい解釈違いだってことです。

FEHに実装すること自体、原作の蒼月の章におけるエーデルガルト様の決意を踏み躙る行為ではないのかと。

覇骸エーデルガルトがプレイヤーのアバター的存在である召喚師と馴れ合うなど、想像するだけでもおそろしい。孤独を貫くと決めた者が誰かに心を寄せるなど、ましてやそれがプレイヤーのアバターである召喚師など、納得できるはずもない。

こういった原作時間軸で亡くなるキャラクターは死亡した記憶を持ち合わせながら至天の世界に喚ばれるパターンが多く、もFEHの覇骸エーデルガルトが生前の選択を誤りだと認識し、この世界でやり直そうなどと言い出す可能性があり、もうなんというか、んなこと言わすな原作に砂かけるなf●ck them allてなります(※まだ召喚イベントも想いを集めても開催されてなく、勝手に想像して勝手にキレています)

 

ただ、唯一褒められる点があり、それは覇骸エーデルガルトが「獣」なことについてです。

原作で語られておらず、すべて私の勝手な妄想に過ぎませんが、なぜ覇骸エーデルガルトが他の魔獣のように四足歩行で獣のような姿ではなく、ギリギリ人の形を保っている姿なのか。

これは、闇に蠢く者が抱いている獣コンプレックスのようなものからきているのだと思っています。憎き女神や女神の眷属と対抗すべく、その憎き者らの力を獣と称するヒトに手を加えることで、ついに最高傑作を作り上げることに成功しました。

そんな最高傑作が、憎き女神や女神の眷属らのような獣の姿ではいかんやろ?という闇うご技師達が意地を見せた結果、半端にヒトの形を保つ感じになったのだと勝手に思ってます。原作にソースはありません。私が闇に蠢く者のえらい人だったらそうすると思います。

そんな闇に蠢く者の汗と犠牲者多数の血で生み出した獣じゃないもん!ヒトだもん!という主張に対してFEHは「いや獣でしょw」といって実装するわけです。お前人のモノ(成果物)を…

まあ、FEH上でソティスは竜、セイロスも竜なので、一応女神と女神の眷属とは差別化できてるわけだから、闇うごもニッコリしてるのではないでしょうか。すべて勝手な妄想です。

 

話がズレたので戻します。

FEHは度々原作で実現しなかったことをやろうと、エモさ重視で整合性は置いてけぼりなパターンで実装しまくり、個人的にやめてほしいなと常々思っていましたが、今回特に私がものすごく大好きなキャラクターだったことから、余計にそのような気持ちが強くなりました。

 

ただ、まだ実装予告が出ただけですので、実際にどのような扱いをするのかをこの目で確かめてから、今度FEHをどうしようか考えたいと思っています。

もし、上記の通り覇骸エーデルガルトが召喚師と馴れ合う姿勢であるなら、基本ログインするだけになるかもしれません。

最推しは解釈完全一致だっただけに、完全にFEHをやめることをしない中途半端な選択しかできない自分が情けないと思いますが、こればかりはどうしようもなく…。

 

 

以上、拙い文章を最後まで読んでくださったこと、感謝します。

 

2021.5.6 追記

誤字脱字修正や、文章付け足しなど行いました。